【ヨガはいつも不思議】Going to the Sun 光のほうへ
「命がキラキラと働いている」
さて、今回は禅の特集だ。ヨガを禅の視点から見ると、いったいどんな発見があるのだろう。そう思うと、心がときめいた。
坐禅(瞑想)を修行の中心に据える禅と、伝統的に瞑想を主な練習とするヨガ。両者の親和性は、これまでもぼんやりと感じていた。けれど取材を進めていくうちに、「今」に意識を向けること、そして禅を特別な修行の場だけに置かず、日常の中で生かしていくという考え方に、ヨガとの共鳴を強く感じた。
そんな取材が始まる少し前の春、母親と山の中で過ごした時のこと。山道を散歩していると、杉の幹から芽吹いたばかりの「胴吹き」にふと目が向いた。その小さな枝は、春の光を受けて、まぶしいほどに輝いていた。
母親はそれを見て「この杉にも太陽の光が届くようになったね。ここ一年の間に周りの木が伐採されたからね」と教えてくれた。周囲の木々がなくなり、ようやく光を受けられるようになった杉は、ここぞとばかりに新しい命を伸ばしているようだった。
その胴吹きの姿に、私は思いがけず心を動かされた。
「なんてまっすぐで、迷いがないんだろう」
光のほうへ向かって、ただひたすらに枝を伸ばしている。キラキラとしていて、美しい。日々の暮らしの中で、このメールにどう返信しようか、自分の人生をちゃんと生きているのかなと、あれこれ迷ってばかりいる私には、その姿が、自分の生きるべき方向へ迷いなく進んでいるように見えた。
あの時感じたものは、今回の取材中、二度、鮮やかによみがえることになる。
一つは、臨済宗の僧侶、中山宗祐さんのお話の中にあった、「悟りとは、命がキラキラと働いていること」という言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏にあの胴吹きが鮮明によみがえった。私があの芽に惹かれたのは、そこに「命の働き」を感じていたからなのだと、ハッとした。そして、胴吹きと一瞬つながり、満ち足りた感覚に包まれたこともまた、私にとっての小さな悟りだったのかもしれない。
まっすぐに光を求める
もう一つは、ヨギーの長嶋泉さんとフラワーアーティストの加藤ひろえさんを迎えて行った、「花いけ」のお稽古でのこと。
加藤さんは、植物が自然の中にある姿を手本に花を生けることをモットーにしている。雑談の中で、「仕事に行き詰まった時は山に行く」という話が出た。山では植物達が、ただその場所で、まっすぐに光を求め、周囲の環境に応答しながら生きている。障害物があればクネクネと枝を迂回させ、あるいは、誰よりも太陽に近づこうと高く高く伸びていく。そんな姿から、多くを学ぶのだという。
そう考えると、人間は、何者かになったり、何か特別なことを成し遂げたりしなければ、命が輝かないと思い込みすぎている気がする。そんなふうに思うのは、私だけだろうか。
「周りの環境に順応しながら生きている」といえば、茨城県天心記念五浦美術館の小泉館長の取材を思い出す。
岡倉天心の『茶の本』についてうかがった際、小泉館長が「芸術とは、周りの環境と調整を繰り返しながら、ピタリと合わせようとする行為だ」と話してくださった。ピアニストがピアノと一体になろうとすることで美しい音色が生まれるように、対象や周囲と調和しようとする姿勢そのものに、私達は美しさを見出し、心を動かされているのかもしれない。
さらに、同誌に連載されている福岡伸一先生の、少し前のコラムが想起される。受精卵から分裂した細胞達は、最初から「自分はこの臓器になる」と役割が決まっているわけではない。周りの細胞達とコミュニケーションを取りながら、自分の役割を見つけていくのだという。それが、生命の基礎的な営みなのだそうだ。
いろいろな点がつながっていく、不思議。
植物も、芸術も、そして私達の体を作る細胞さえも、置かれた環境や周りの存在と対話しながら、その時、その場所で、自分の命を働かせている。中山さんの言葉を借りれば、それは、「命がキラキラと働いている瞬間」であり、ささやかな悟りの体験なのかもしれない。
禅僧になる人は、坐禅や作務という修行を通して、その境地へと歩んでいく。けれど、修行僧ではない私達には、暮らしが舞台となる。仕事でも、家庭でも、推し活でも、目の前にあるものや、置かれた環境に向き合い、その時の自分の命を一生懸命に働かせるように生きられれば、私の命もまた、あの小さな胴吹きのように、キラキラと輝いているのかもしれない。
【プロフィール】
山本加奈
編集者・ライター・プロデューサー・茶道家。ヨガ、ウェルビーイング、映像カルチャーを中心に取材・執筆を行う。RYT200修了。国際的なクリエイティブイベントのプロデュースや茶道の実践を通じ、身体性と精神性、文化や表現の領域を探求中。
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