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クレーシャ クレーシャがあるからヨガがある

日々の苦しみの総称「クレーシャ」

私達は日々を幸せに楽しく送りたいと思っているのに、なぜ、日々の生活には苦しみがつきまとうのだろうか? ヨガでは、その苦しみの原因を総称して「クレーシャ」と呼ぶ。クレーシャがあるから、私達は苦しむのだと。それなら、クレーシャなんてなくなればいいのに! そんな心の叫びに森田尚子先生はこう答える(以下、コメントはすべて森田先生)。

「だからこそヨガがあるんです。ヨガはそもそもクレーシャ対策です。苦しみの原因であるクレーシャを少しでも減らすために八支足があります。ここで注目してほしいのは、パタンジャリが、『クレーシャをなくしましょう』ではなくて、『減らしましょう』と言っていること。それぐらい、クレーシャをゼロにするのは難しいということです。だからこそ、先人達は修行や苦行を重ねたのだと思います」

 

クレーシャとは?

 

クレーシャとは、私達の行動や思考を支配している印象的な記憶からつくられる思考パターンである”サムスカーラ”が、もっと強力になったもの。

例えば、人前で恥をかく経験をすると「もう人前で恥をかきたくない」という思いが、行動を制限する。サムスカーラの時には「自分が行動しないのは、前に恥をかいたせいだ」と認識しているけれど、それがクレーシャになった時には、自分の過去の行動によって行動を制限していることにさえ気づかなくなっている。

色眼鏡をかけた時、最初は違和感があるけれど、だんだん違和感がなくなって、かけていることすら忘れてしまった状態

自分はありのままの世界を見ているつもりが、実は外すことさえ困難な色眼鏡で覆われた世界を見ているのだ。

まったく違う色眼鏡をかけた人同士が白い壁を見て、「あれは黄色だ」、「あれは白黒のボーダーだ」といっても、永遠に正答にはたどり着かないように、クレーシャが私達のマインドをべったりと覆っている時には、五感がゆがみ、それぞれが見たいように見て、聞きたいように聞いているだけ。クレーシャがある限り、真理にはたどり着かないのだ。

五つのクレーシャ

 

Avidhya/アヴィッデャー/無知

誤った知識、誤解。暗がりの中にいて、真実が見えていない状態。五つのベースとなる項目。

Asmita/アスミター/真我と自我の混同

自分の本質(プルシャ)とマインド(エゴ)の区別がつかない。一つのものであるかのように認識していること。

Raga/ラーガ/欲望

刹那的な快楽につながるものを求める欲。本当の喜びにたどり着くことはできない。

Dvesa/ドヴェーシャ/嫌悪感

嫌悪感。嫌い、嫌いだと思う気持ち。一度イヤだと思うと、自動的にそれを避けようとしてしまう。

Abhinivesa/アビニヴェーシャ/恐怖

恐怖。死の恐れに基づくため、肉体がある限り拭い去ることは難しい。一番やっかいなクレーシャ。

 

五つの苦悩「クレーシャ」をひもとく

 

Avidhya/アヴィッデャー/無知

 

色眼鏡をかけて世界を見たらものごとの受け止め方も、行動も変わってくる
色眼鏡を外したら、そこに何が見える?

 

暗くて何も見えない山道を歩いている時、茂みでガサガサッと音が聞こえたら、飛び上がるような恐怖に襲われるはず。実はそれは、どんぐりが木から落ちただけで、何も怖がる必要はない…。なのに、命がおびやかされるような恐怖を感じるのは、勝手に想像を膨らませているから。これがアヴィッデャー(無知)。

もう少し身近なところで考えてみると、例えば前髪を切りすぎて「ああ、失敗しちゃったな」と思いながら美容院を後にする。誰も自分のことを笑ってなんかいないのに、勝手に被害者になって悲しんだり憤ったりする。これもアヴィッデャーだ。

つまり、誤った認識を持ち、誤解しているせいで、真実が見えていないということ。常に色眼鏡をかけて事象を見ているような状態なので、五つのクレーシャのすべてのベースがアヴィッデャー、無知なのだ。

アヴィッデャーのせいで、最初の部分で誤ってものごとを知覚してしまうと、その後の思考も決断も、行動も、結果も、すべたが間違ってしまうからやっかいだ。

 

『ヨーガスートラ』には、アヴィッデャーには強さとレベルがあると書かれている。

1:ほとんど眠っている状態

2:ちょっと出てきて動き始めた状態

3:自分を支配しコントロールできないほど強くなってしまう

この1、2の段階から3になると一気に強くなっている。

 

「私は高所恐怖症なんですが、それでも山登りも最初は楽しい。これが1。だんだん高くなると、ちょっと恐怖心が出てくるけれど、少し休憩すればまだ大丈夫。これが2。それが、鎖場みたいな険しい崖を目にした瞬間、恐怖心が出てきて自分ではその恐怖心をどうにもコントロールできなくなる。これが3です。なので、『ヨーガスートラ』の著者パタンジャリは、『支配されないように、小さいうちにコントロールしなさい』といい、そのための手段として挙げているのが瞑想です」

 

Asmita/アスミター/真我と自我の混同

 

「私ってこんな人だから」。
本当にそう? 自分が思っている“私”は、本当の私?

 

例えば、小学校に入ったばかりの時、張り切ってみんなの前で手を挙げて発言したとする。その時には、積極的な自分がいた。ところが間違えてクラスメートに笑われてしまった。その時のみんなの笑い声が恥ずかしくてたまらなかった経験が、強い印象として残る。二度と笑われたくないから、それ以来、いっさい手を挙げなくなり、「私は引っ込み思案なんだ」と思うように。自分の中で「私=引っ込み思案」という図式をつくりあげてしまった。でも、ここでいっている“私”は、自分で「これが自分だ」と思い込んでいる“私”のこと。

「アスミターは、そもそも“私”というアイデンティティを間違えているので、本来の私(プルシャ)ではなく、経験からくる記憶でできた私(マインド)を、本当の自分だと勘違いしてしまう勘違いしたものを見たり聞いたり、理解し、記憶するので、マインドの曇り(クレーシャ)がどんどん増していき、さらに“私”が曲がってしまうんです」

「アスミターとアヴィッデャーはすごく似ています。本来、マインドとは、目や耳の感覚の受容をサポートしているだけのもの。ところが、感覚と自分が分けられない状態になっているのがアスミターです。感覚器がマインドに覆われてしまっているので、そこにあるものを、あるがままの状態で見たり聞いたりすることができない。そうすると受け取るものが変わってくるから、その先の思考や行動がすべて変わってきてしまうんです」

マインドの曇りが取り除かれたら、まるで霧がサーッと晴れていくかのように、まったく別の素晴らしい景色が見えてくるはずだ。

 

Raga/ラーガ/欲望

 

欲望は瞬間的な快楽を満たす。

でも、そればかりを追っていたら真の喜びには到達できない

 

ラーガとは欲望のこと。欲望といっても「自分は人生をこれで成し遂げたい」、「ダルマ(本来の自分を生きること)を全うしたい」という健全な欲ではなく、「もっとほしい」、「お金持ちになりたい」といった刹那的な喜びにつながる欲

「例えば仕事を選ぶ時、給料がいいという理由で選ぶと、お金をたくさんもらえるという欲望=ラーガは満たされるかもしれないけれど、自分の惰妻を全うするという本来目指すべきところからはかけ離れてしまう。そんな風に『ダルマを全うしたい』という本質的なところから湧き出る欲と、エゴからくる刹那的な欲は全然違います」

『ヨーガスートラ』には「スッカを味わうと、必ずラーガがつきまとう」と書いてある。スッカとは幸せや快適さ、喜びのことで、ヨガの目的の一つはドゥッカ(苦しみ)を減らして、スッカになることだと思っていたが、これでは何かネガティブに聞こえる…。

「スッカがダメだといっているのではなく、スッカを味わったことで、何も考えずに繰り返してしまうのが怖いという意味です。例えば、ある店ですごく美味しくて高級なステーキを食べて、スッカを味わったとします。そこで終わらずに『また食べたい、また味わいたい』という欲望から、頻繁に店に通い食べ続けてしまう時、そこには『体によくない』とか『ためていたお金がどんどん減るから行かない方がいい』とは考えられなくなっています。そんな風に、ラーガにとりつかれると、自分の人生を全うすることでしか味わえないスッカとは、つながれなくなってしまうのです」

 

Dvesa/ドヴェーシャ/嫌悪感

 

「イヤだな」とッ感じたことを基に行動していると
世界は狭く、苦しくなっていく

 

「これイヤだな」という程度のものから、「生理的に絶対に受け付けない」というものまで、あらゆる嫌悪感をドヴェーシャという。そしてスッカを味わうとラーガ(欲望)がつきまとうのと同じように、ドゥッカを味わうとドヴェーシャはつきまとってくる

「一度、『イヤだな』という経験をすると、次からは『それ嫌い、だからやらない』、『嫌いだから食べない』などと、無意識に行動を決めてしまいます。そんな風に私達が『これはイヤ』とパターン化して何も考えなくなることを『ヨーガスートラ』は危惧しています。ヨガでは、意思や意図をもって行動することをとても大事にしています。だからこそ、身近にあるスッカやドゥッカに気をつけましょうと説いているのです」

無意識的に、機械的に動いてしまうのをやめていきたい時、効果的なのがプラーナーヤーマ。どの呼吸法でもいいが、長くて繊細なナーディーショーダナがオススメとのこと。

 

Abhinivesa/アビニヴェーシャ/恐怖

 

肉体があるから死を恐れる
でも恐怖心がなければ危険を避けられない。うまくつき合って

 

死の恐れに基づいた恐怖。しかも「理由なく流れてくるという特徴があるので、ヨギーやマスターといわれる人達の中にも根深く存在するほど、クレーシャの中でも一番やっかいと言われている。暗闇の中で何か音がすると恐怖を感じるのも、高所恐怖症も、根本には死の恐怖があるからだ。

「あまりにも非日常的なことが起きたり、急激な変化が起こると、私達は命をおびかされるのでは、という恐怖を感じます。なぜかというと、『ヨーガスートラ』の第4章(カイヴァリャ・パーダ)に書いてありますが、人間には『生きていない』という究極の欲があるから。だからこそ、どんなに修行を積んだ人にも出てくるのだと思います」

『ヨーガスートラ』では、理論的にはゼロにすることができるというが、肉体がある限り、クレーシャはゼロにならないだろう。むしろ恐怖心があるからこそ、命の危険を回避できているともいえる。

「お互いがうまくやっていけば、悪いものではないと思います」

 

 『ヨーガスートラ』の説くクレーシャ

 

2−3 avidya-asmita-raga-dvesa-abhinivesah-kleasah

クレーシャ(苦しみの原因)とはアヴィッデャー(無知)、アスミター(自我)、ラーガ(欲望)、ドゥヴェーシャ(嫌悪感)、アビニヴェーシャ(恐怖)のことです。

 

2−4 avidya ksetram-uttaresam-prasupta-tanu-vicchinna-udaranam

アヴィッデャー(無知)は残りの四つの土台になっています。アヴィッデャーには強弱があります。寝ているように動きがない状態、動いている状態、大きくなって自分が支配されてしまうほどの状態です。

 

2−5 anitya-asuci-duhka-anatmasu-nitya-suci-sukha

アヴィッデャー(無知)は、永遠のものと永遠でないもの、クリーンなものとそうでないもの、快と不快、プルシャとそうでないものを間違います。

 

2−6 drgdarsanasaktyoh-ekatmata-iva-asmita

アスミター(真我と自我の混同)は、プルシャと、それを助けるもの(プルシャ以外のすべて)がまるで一つものとして存在していると考え、区別つかなくなっている状態です。

 

2−7 sukhanusayi-ragah

ラーガ(欲望)はスッカ(快)につきまといます。

 

2−8 duhkhanusayi-dvesah

ドヴェーシャ(嫌悪感)はドゥッカ(不快)につきまといます。

 

2−9 svarasavahi-viduso’ pi-samarudhah-abhinivesah

アビニヴェーシャ(恐怖)はしつこくて独自に動き、勝手に生まれてきます。修行を積んだヨーギーにおいても根深く存在しています。

 

2−10 te-pratiprasavaheyah-suksmah

クレーシャ(五つの苦悩)の動きが小さいうちに対策を行いましょう。

 

2−11 dhyanaheyah-tadvrttayah

瞑想はクレーシャ(五つの苦悩)の動きを減らす方法です。

 

2−12 klesamulah-karmasayo-drstadrstajanma-vedaniyah

クレーシャ(五つの苦悩)を土台に行動をした場合、その結果はすぐに出てくることもあるし、後になって起こってくることもあります。次の生まれで知ることもあります。

 

2−13 satimule-tadvipako-jatyayurbhogah

クレーシャ(五つの苦悩)をベースに行動を続けていくと、結果として、行動の質や命の時間の濃さ、経験する内容が変わってきます。

 

2−14 te-hladaparitapaphalah-punyapunyahetutvat

いい動機なのか、悪い動機に基づいて動いているのかで結果が変わってきます。悪い動機を持てばずっと苦しみが続きます。

 

2−15 parinama-tapa-samskaraduhkhaih-gunavrttivirodhacca-duhkhameva sarvam-vivekinah

そもそも私達の苦しみは、変化や欲望、サムスカーラ(思いや行動のクセ)、グナ(自分の質)が乱れていることなどが原因です。これは誰でも当てはまります。

 

2−16 heyam-duhkhamanagatam

苦しみに先回りして対策しましょう。

 

2−17 drastrdrsyayoh-samyogo-heyahetuh

知覚しているものとプルシャを混同することが、そもそもの苦しみの原因です(サムヨーガ)。

 

2−24 tasya hetuh-avidya

サムヨーガの原因はアヴィッデャー(無知)です。

 

2−25 tadabhavat-samyogabhavo-hanam-taddeseh kaivalyam

アヴィッデャー(無知)をなくして、サムヨーガ(混同)を存在させないことが、ヨガのゴールです。その状態をカイヴァリヤ(解脱)と言います。

 

2-26 vivekakhyatih-aviplava-hanopayah

ヴィヴェーカ(ものごとを見分けられる知識や智慧)が絶え間なく流れてくる状態になれば、ゴールにたどり着きます。

 

2-28 yoganganusthanat-asuddhiksaye-jnanadiptih-avivekakhyateh

八支足を続けていくと、自分の中にあるクレーシャ(五つの苦悩)が減ります。そうすると明瞭さが増して、いずれ完全な叡智がやってきます。

 

*日本語訳は、原文に基づきつつも、理解しやすいように言葉を補足しながら翻訳しています。

 

 

話してくれた人/森田尚子

もりたなおこ。『ヨーガ・ヴェーダ協会』代表。クリシュナマチャリアのヨーガ正式指導者(インド政府公認)。ヴェーディック・チャンティング正式指導者。https://www.yoga-veda.jp/