
カルマ よりよい未来を作る人生の種まき=カルマという考え方
カルマを知ることは、人がどう生きていけばよいかを知ること。聖典『バガヴァド・ギーター』を教科書に、その基本をおさらい。
Contents
【カルマには善も悪もない】
仏教で「業(ごう)」というイメージがついているために、カルマとは悪いこと行いをすると自分に還ってくるという捉え方をしていることが多いが、ヨガでは必ずしもそうではない。
カルマという言葉がインドの文献で初めて登場したのは、紀元前7世紀ごろから紀元4世紀ごろに書かれた『ウパニシャド』。その当初、カルマは単純に「作用・行為」の意で使われていた。
長い時を経て変遷し、今では、人のあらゆる行為や発言に伴って、記憶(サンスカーラ)が潜在意識層に残り、心にも反映されて次の行動に影響する「原因と結果」のループを指すのが一般的だ。
悪いループをイメージする人もいるかもしれないが、「本来、よいも悪いもない」と本項監修の西川眞知子先生。よくても悪くても一つの思いにとらわれてしまえば、結局は苦しみにつながる。行為の結果を意識も期待もせず、カルマを断ち切るための実践が「カルマ・ヨガ」なのだ。
心/願 望・意 図(マナス)→体/行 為(カルマ)→意識/記 憶(サンスカーラ)→マナス
行為や発言とその結果は無意識のうちに記憶されていく。その記憶が願望を生み、次の行為を生む。因果応報、自分の行いは自分に還ってくる。だからといって“見返り”を求めることは執着につながり、連鎖から抜け出せない。
【「奉仕」=無執着の行為】
カルマ・ヨガでは、行為の結果に見返りを求めず、「奉仕」せよと言うことがある。奉仕というとボランティア活動など無償の行為を思い浮かべるが、これは「無執着であれ」ということ。例えば、人を助ける時に「ありがとう」という言葉を期待すると、言われなければガッカリしたり、相手にネガティブな感情を持ち、負のループが始まる。
約2000年前に成立したカルマ・ヨガの聖典『バガヴァド・ギーター』にも、カルマ・ヨガの定義として、行為 をしている自分のことすら忘れ、目の前のすべきことだけを純粋に行いましょうと書かれている。誰かに思わず手を差し出した、ただそれでいい。そうした無執着の行為の“種まき”を続けるのがカルマ・ヨガの道。
【『バガヴァド・ギーター』に書かれていること】
『バガヴァッド・ギーター』にはカルマヨがというヨガが解説されている。
□バガヴァド・ギーターとは?
紀元前150年ごろから紀元後1世紀ごろまでに成立した、世界最古の戦記の一部で、ヨガ の教典の一つ。主人公アルジュナの苦悩を基に、問答形式で物語が進む“生き方バイブル”。
□ギーターのあらすじ
全18章700節(701節という人も)の詩編で構成。主人公は王子アルジュナ。軍人階級の彼にとって戦争は当たり前のものだったが、ある時、王権争いの中で親戚や友人と殺し合 うことに疑問を感じ、本当にこれでいいのか? 自分はどう行動していくべきなのか? と、自慢の腕を持つ弓を落としてしまうほど激しく心を悩ます。今まで突っ走ってきたア ルジュナが立ち止まった大切な瞬間だ。アルジュナの親戚でもあり、アルジュナを乗せた 馬車の御者として戦場へおもむいたクリシュナは、ヒンドゥー教の三大神の一柱、ヴィシ ュヌ(維持神)の化身。クリシュナはアルジュナに、自分の本当の役割は何か、何のためにそれをするのか、あらゆる視点と言葉で説く。
□ギーターを理解する詩節
ギーターが要約された第2章で、エッセンスを理解しよう18章のうち、最初に読むなら第2章から。
<22節>
人が古くなった衣服を捨てて
新しい別の衣服に着替えるように
魂は使い古した肉体を脱ぎ捨て
次々に新しい肉体を着るのだ
解説「こだわらず、執着を捨てよ」

戦争で親しい人達を傷つけることに苦しむアルジュナ。神クリシュナは、滅びているのは魂の入れ物としての肉体であって、魂そのものではないと説く。変化に対して執着しないこと。何か物が壊れたりしても、そのこと自体にいつまでもくよくよせず、別の使い方や工夫ができないかなどと考えを切り換えれば、前に進める。
<47節>
君には 定められた義務を行う権利はあるが
行為の結果については どうする権利もない
自分が行為の起因で
自分が行為するとは考えるな
だがまた怠惰におちいってもいけない
解説「行為の見返りを期待しない」

結果に期待せず、目の前のことにただ純粋に取り組むことが大事、と説くカルマ・ヨガの考え方。思い通りにならなかったことや、そこから生まれる負の感情に縛られるのはもったいない。たとえ 自分がどんな思いを持っていようと、行為の受け取り方は相手次第。自分を変えることはできても、相手を変えることはできないのだから。
<69節>
あらゆる生物が夜としているときは
物欲を捨てた賢者にとって昼である
あらゆる生物が昼としている時は
賢者にとって夜である
解説「人の評価でなく自分を信じて」

ものごとは多数決ではないし、何が本当に正しいのかを決めるのは他人ではない。「誰かがこう言っていたから」と流されず、自分が信じる道があれば、迷わず進めばいい。賢者、つまり経験を積んで本質を観ようとする人にとっては、ダイヤモンドも石ころも同じ。価値はそれぞれに存在し、比較によって生まれるものではない。
【作用・反作用は「選択」で変わっていく】
自分の行為や発言によって、何かの結果が反作用として返ってくる。その中身は、自分の選 択によって大きく変わる。例えば上司に飲みに誘われた場合。仕事と家族との時間のどち らを優先すべきなのか。自分のダルマ、本当の「役割」は何か。迷った時は「自分自身を汚さないもの」を基準に選択して、と西川先生は言う。それを続けることで自然と心が波立たなくなり行為が純粋化していけば、結果として周りにも平和をもたらすかもしれない。
【アルジュナも苦悩した「ダルマ」】
ダルマとは、「進むべき道」。義務や役割とも訳される。『ギーター』の中で、王族として戦うことがアルジュナの役割だった。ダルマを捨てる選択肢もある。だが大切なのは、ダルマをカルマとして、いかに純粋に行動できるかだ。
【皿を洗うのもカルマ・ヨガ】
日常生活の私達の言動一つひとつが、カルマ・ヨガの実践に成り得る。ただし、それには「今、ここ」のマインドフルネスが大事。周囲に気を取られず、目の前のことに100%で取り組むこと。西川先生の師であるスヴァーミー・サッチダーナンダ師は「皿を一生懸命洗うこともカルマ・ヨガ」と言っている。ヨガのポーズにも全力で集中しよう。
【“人は自分の映し鏡”ってどういうこと?】
人は、他人の中に実は自分を見ている。もし「嫌だな」と思う相手がいたら、それはきっと、 自分にも同じような要素があると感じているからでは? 『バガヴァド・ギーター』では答えは自分の中にあり、それを知るためには自分の内側を見つめ、心の揺らぎを整えることだと説く。自身の中にある変わらない本質(真我=アートマン)を見ることが大事。
監修=西川眞知子
にしかわまちこ。西川眞知子ライフデザイン研究所代表。海外歴訪中に出会ったヨガや自然療法の経験や研究を基に「日本ならではのアーユルヴェーダ」を提唱し、著書や講演も多数。『バガヴァド・ギーター』は座右の書。
引用は田中嫺玉著『神の詩』より
出展=『Yogini』Vol.21 / Vol.24 / Vol.61