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プルシャ/真我 「自分とは何?」の答え。常にハッピーで尊い存在である「本来の自分」

「自分とは何だろう?」という問いにヨガは答えてくれる。自分とは「プルシャ(真我)」という存在。ではプルシャとは?

 

ヨガのゴールはプルシャ(真我)に至ること

 

プルシャとは「真我=本来の自分」プルシャに対し私達が自覚している自分は、や体であり、これらはプラクルティ(根本原質)から生まれた、経験や観念などの現れだ。そして、プラクルティに覆われ、プルシャであることを忘れてしまっている。ヨガの目指す最終的なゴールは、「自分とはプルシャだ」と思い出すこと。

 

プルシャとは超越的な存在

 

私達は日ごろの経験や習慣、執着などで、身の回りのことを判断している。すると心は条件付きの見方を採用し、真実とは異なる捉え方をしてしまう。しかし、プルシャは本来、超越的で幸福をも超えた純粋意識。ものごとをありのままに捉え、目撃している。プルシャが目撃しているのは、自分で着ている着ぐるみの状況。着ぐるみにはいろいろなことが起こるが、プルシャはそれに反応せず、ただ目撃しているだけなのだ。

 

プルシャとアートマン

 

プルシャもアートマンも根本は同じ。ヨガの文献を著したそれぞれの学派により、「真我」についての名称や切り口が異なったのだ。『ヨーガ・スートラ』の基になっているサーンキャ哲学では「プルシャ」、『ヴェーダ』の奥義書である『ウパニシャド』文献では「アートマン」と呼ばれる。その存在の特質はどちらも同じ。

 

悩みや苦しみは「自分」の体験ではない

 

悩みや苦しみなど心の動きは実在ではない。これらは、本来の自分ではない心の状態(着ぐるみ=プラクルティ)が勝手に生み出した「幻想」。私達はそれに気づかず、自分と着ぐるみを混同し、着ぐるみの苦しみや悩みに振り回されている。しかし、本来の自分はそれを目撃しているだけで、傷ついたり悩んだりすることはなく、あくまでもハッピーな存在。まずはその苦しみが幻想だと理解し、自分の体験ではないと気づきたい。

 

プルシャに近づく方法は諸説あり

 

ヴェーダーンタ(ウパニシャド)では。アートマン(真我)とブラフマン(宇宙の根本原質)は一つで、心を統一し知恵や直感を通じて、それを知ることで至る。一方『ヨーガ・スートラ』では、プルシャとプラクルティの二つを設定している。これは映画に例えるとわかりやすい。プルシャは観客、プラクルティはストーリーで別物と理解し、八支足の実践でプルシャに近づく。続いてハタヨガでは、女性性(個人根源的エネルギー)と男性性(無限の純粋意識)の異なる二つの存在を統合することで至福を得ると言われる。

 

プラクルティとは?

 

サーンキャ哲学では「プルシャ(真我)」と「プラクルティ(根本原質)」が、私達の根本にあると考える。そして、プラクルティから精神(知性、自我、心)と肉体、物質(食べ物や洋服など何でも…)、自然界や宇宙が生まれてきたとする。プルシャは自分がどういう存在かを知るために、プラクルティに起こることを目撃しているのだ。

 

プラクルティの三つの質

 

プラクルティにはグナと呼ばれる三つの質がある。まずはサットヴァ。これは人で例えるなら純粋性が高く、冷静で知的。次にラジャス。行動的でエネルギッシュだが、エゴが強め。最後はタマス。落ち着いているが無気力になりがち。この三つの質はすべてのものにあり、サットヴァであることが理想とされる。

しかし、常に揺れ動き、なかなかサットヴァになりにくい。例えるならシーソーのようなもので、ちょうど真ん中でフラットな状態を保つのが難しいようなものだ。とはいえ、ラジャスもタマスもその時々の一つの質でしかないので、ポジティブに捉えるかネガティブとしてしまうかは、受け取り方次第。

 

話してくれた人
ヴェーダプラカーシャ・トウドウ

「ヴェーダセンター」主宰。ヨーガ瞑想教師。インド哲学・アーユルヴェーダ講師、インド政府公認プロフェッショナルヨーガ・インストラクター(AYUSH省QCI認定)。ヴェーダ詠唱家。インド祭祀(冠婚葬祭)祭司。4000人以上に瞑想を指導。

 

出典:『Yogini』Vol.76